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2011年9月21日【奥出雲 『人物』】,【奥出雲 『施設』】
実業家・稲田神社創建者 小林徳一郎氏
皆様こんにちは!やっと稲田神社の創建者・小林徳一郎さんをご紹介する日が来ました。色々調べていくと、ついあっちこっちと脱線してしまいまして、なかなかまとめる事ができませんでしたが、何とかやっと今日に至りましたのでご紹介します。
まず稲田神社を簡単に説明しますと、古事記(712年)や日本書紀(720年)に書かれたヤマタノオロチ神話に出てくるスサノオが助けたお姫様(古事記では櫛名田比売(クシナダヒメ)、日本書紀では奇稲田姫(クシイナダヒメ)と表記=通称稲田姫)を主祭神として祀る神社です。その昔小さな祠と今でも現存する'産湯の池'(稲田姫様生まれた時に使ったとされる池)と'笹の宮'(稲田姫が生まれた時臍の緒を切った笹)があり、安産の神・縁結びの神としてこの地域の人々に信仰されていました。
小林徳一郎氏は奥出雲の生まれではなく、島根県邑智郡高原村に明治3年生まれました。徳一郎氏の祖父幸四郎氏が横田町下横田生まれで氏の弟・伝助に家督を譲り、たたら製鉄に打ち込むため祖父は広島県比婆郡比和村に移りました。そして祖父の長男清四郎(徳一郎の父)が邑智郡高原村に移り、そして徳一郎氏が生まれました。
たたら製鉄は洋式製鉄用の輸入により経営は苦しくなり、小林家も苦難の時代を迎えます。そして徳一郎氏は幼少より鍛冶屋に奉公に出たり、寺の小僧として一家の家計を助けました。そして16歳で福岡県田川郡の炭鉱に入る為、歩いて旅にでます。通りすがりの人から聞いた峰地炭鉱に入り28歳までひたすら炭鉱夫として地道に働きました。
28歳結婚を機に正業を進み工事現場の現場監督、そして小倉駅前埋め立ての築港工事、九州鉄道の海老津駅改築工事、陸軍十二師団関係の諸工事等を請け負い、その傍ら運送業や回漕問屋を開業し、青年実業家としての地位を確固たるものにしました。明治38年36歳の時でした。 同じ頃小林家と縁続きだった安部家は火災等で家運が思わしくなかったので援助ということで安部家の山林・田を買い求めます。(のちにこの山から切り出された木が稲田神社創建に使われることに。) この頃から請負工事が急速に増加し小倉の師範学校や小中学校などなどおびただしい数の仕事をこなしました。そして明治44年、'発展は社会の恩恵'という事で島根県に1万円を寄付し、小林育英資金を設けます。
大正3年に初めて祖父の郷里である横田に帰省した時、親族と協議して成功した記念として稲田神社を造営し創建することを決心。また大正4年には大正天皇御大典記念として出雲大社の大鳥居と参道の松樹数百本を寄進。その他様々な社会貢献活動をします。
稲田神社創建の決心から17年、3期に分け工事をすることに。第1期工事を昭和6年~8年まで、第2期工事を昭和13年11月~14年12月まで、第3期工事は起源2600年記念として計画、しかし戦時中の統制が厳しく実現せず。第2期までの総工費は三十数万円にも及ぶ多額の金額がかかり、参道・本殿向拝・幣殿・社務所・神橋・拝殿向拝・通殿・神饌殿・手水舎・玉垣・石垣・石段・大鳥居が完成しました。(今のお金に換算すると数十億だそうです。)そして昭和14年12月境内に小林徳一郎頌徳碑が建立。氏70歳の時でした。晩年も寄付や社会貢献活動を積極的にされ、昭和31年1月3日小倉市において87歳の生涯を閉じました。
【参考文献】
『聞書小林徳一郎翁伝』発行・小倉市役所秘書課内'小林徳一郎翁顕彰会' 筆録者米津三郎、編纂者劉寒吉
『奥出雲』発行・横田史談会 高橋一郎著
今、多分稲田神社の事を知らない人もいれば、いつ誰が建てたのかなど誰も興味を持たないと思います。しかし、私たちの先祖にこのように地域を思い地域の為と思い活動された方がいたことを伝えるのは今いる私達だと思います。この神社は氏子がおらず小林徳一郎氏が建ててからかなりの年数が経ち老朽していましたが、平成18年に"稲田神社保存会"が立ち上がり寄付金集めをされ、この度拝殿の修繕が完成しました。そして9月24日(土)、『出遷宮祭』が千家名誉宮司の元とり行われます。一般の方も参加可能のようですので、興味のある方は是非足を運んでみて下さい。17時頃より始まるそうです。

2010年9月 1日【奥出雲 『人物』】
"岡崎喜一郎氏″について
皆さんこんにちは! 9月に入りましたね。田んぼの稲も随分黄色くなり、また赤とんぼがたくさん飛んでいる姿を見かけます。まだまだ暑いですが、秋が近付いているのを感じる今日この頃です。
さて、今日のお題は"岡崎喜一郎"氏です。2008年12月25日の私のブログに『横田相愛教会』の事について書きました。今読み返してみても、そんなに大したことは書いていませんが、そこに「岡崎喜一郎」「同志社大学卒業」「県下で2番目の幼稚園創設」「銀行創設」と書いた事で、下記のように3名の方からコメントを頂きました。しかも今年に入ってからばかり...。
■丸山 聖一 様(2010年1月31日) 岡崎喜一郎を研究している公立学校教員です。岡崎は晩年、東京府下小笠原諸島の母島の、さらに奥地の孤島で、児童自立支援施設を経営しました。奥様もご一緒です。当時の何か情報、たとえば手紙、写真、絵はがきなどをお持ちの方がいらしたら、拝見したいのですが。また、昭和14年の横田大火をご記憶の方、何か思い出はございませんか?岡崎が最晩年に勤務した鉄材会社名をご存じありませんか?お伺いします。
■小笠原みどり 様(2010年4月 7日) 岡崎喜一郎は八雲銀行役員でした。八雲銀行は後年山陰合同銀行になります。奏任官待遇で横田郵便局長を退官して、今で言う少年院を設立し、戦後病没しました。この人物に関する情報をお教えください。留岡幸助、山室軍平、本間俊平、金森通倫、小崎弘道らと交遊がありますが、青年時代に太田清三郎という津山中学教員と懇意です。この太田という人物は津山市の市長か町長をやったように思われますが、どなたかご存じですか
■小野一雄 様(2010年8月26日)
《岡崎喜一郎》早稲田大学 専修英語科 明治30年得業
横田郵便局長・八雲銀行 取締役・松江銀行 横田支店長
【早稲田大学校友会会員名簿】
[第1冊]大正4年11月調 明治三十年得業 専修英語科 岡崎喜一郎(島根)
[第2冊]大正14年11月調 明治三十年得業 専修英語科 岡崎喜一郎 郵便局長
【大日本紳士名鑑】大正5年7月15日発行
島根県仁多郡横田村 岡崎喜一郎 横田郵便局長 八雲銀行取締役 p724/1086
と、上記のようなコメントを頂きました。(小野一雄氏のコメントは一部省略しています。)
一番最初、丸山様よりコメントを頂いた時は「調べてみますので、少しお待ち下さい。」と返しました。しかし結局調べず仕舞い。今度小笠原様よりコメント頂いた時には失礼ながらお返事すらしませんでした。何故なら、見ず知らずの方にいくら故人とは言え私が調べてインターネット上に載せて良いものか?本当に調べたい方なら私に直接身分を明かしメールでも下さるか、もしくは、岡崎家がありますのでそちらに聞かれるのが良いのではないか、と思ったのでそのまま放っておきました。すると今度は、つい先日、小野様より岡崎喜一郎氏に関する情報提供のコメントが寄せられました。お名前フルネーム、お住まいの町名、メールアドレスがあったので、何故この様な情報を載せて下さったのか不思議に思ったのと、少し不審に思った事もあり、書いてあるメールアドレスにメールさせて頂きました。
そして、その後5・6通のメールのやり取りをさせてもらい、もちろん身分のきちんとした方で何故情報をお寄せ頂いたか等、ご丁寧に説明いただきました。
小野様とのやり取りの中、改めて自分の書いたブログを読み、頂いたコメントを読み、『こんな大した事しか書いていない私のブログに多分'岡崎喜一郎'という言葉で引っかかり、知らない方から3通のコメントを頂くとは...。また'岡崎喜一郎'氏を調べておられる方がこんなにおられるとは...。岡崎喜一郎さん、凄いじゃん!!』と思ったのです。
小野様からのメールで火が付いた私は、早速両親に頼み岡崎家へ取材(?!)を申し込みました。岡崎家は私の生まれ育った家の目と鼻の先で、もちろん今お住まいの岡崎ご夫妻とも顔見知りではありますが、大きくなってからはあまりお話する機会もなかったので何となく足も遠のいていましたが...、アポも取れ先日、月曜日の朝伺って来ました。
『まぁ、咲ちゃん!初めて上がってもらったわね、うちの家に。ようこそ・ようこそ。私で分かる事なら...。』と岡崎喜一郎氏のお孫さんに当たる方の奥様にこのように言って頂き、お話を伺う事ができました。


10時から13時半まで、たくさんお話を聞かせて頂き、そして資料をどっさり借りて帰りました。
まず、『奥出雲の地の塩~雲南キリスト教史物語~』加藤歓一郎・藤原道夫共著(初版:昭和48年10月1日)という本を読むことを勧められたので早速読み始めましたが、ここから明らかになってくる"岡崎喜一郎"氏のやって来られた事等、非常に興味深く、感動・感動の嵐です!!こんな凄い方が奥出雲から出ているなんて!!と。
そしてコメントを下さった方の文章に出てくる人物との関わり合い等、どんどん分かってきて、私なりにまとめてみようという気持ちになっています。
「情報仁多」が取材された『奥出雲散策~なっとく!町の文化財~』では"横田相愛教会 前編・後編"として平成19年6・7月に放送されていました。DVDをお借りして見ましたが、とても良くできたDVDでこれも町の宝だなと思っています。
では、岡崎の奥様に許可を頂いたので、少し写真及びプロフィールをご紹介させて頂きます。

"岡崎喜一郎" 明治6年(1873年)12月1日生まれ
17歳の時、鳥取県倉吉農学校へ行き、そこで岡山県津山市出身の太田清三郎と出逢う。
太田氏から同志社大学創立者、新島襄の伝記を借りて読み感銘を受け、
明治26年1月に同志社大学に入学。ここで1年先輩の山室軍平と出逢う。病気になり一時帰郷した際、仏教に熱心だった両親がキリスト教に触れた喜一郎を危惧し、復学を認めなかった。しかし、
明治28年11月22日両親に無断で家出、そして同志社大学に復学。
明治29年12月に同大学を卒業し、翌年私立東京専門学校(早稲田大学の前身)の文学部に入学、明治32年に卒業した。


その後喜一郎は同志社の先輩金森通倫に従って渡米を志していたが、家庭の都合で帰郷。
明治33年(1900年)3月病気の父親に代わって横田郵便局長に就任し、同年10月には株式会社八雲銀行取締役に選出された。喜一郎27歳。
明治34年に松江でキリスト教の布教をしていた宣教師ナイトが横田を訪れ布教活動、しかし仏教に熱心な両親に遠慮して目立った活動はしていない。
明治41年8月横田町砂子屋で第一回キリスト教夏期修養会が開かれた。これを企画したのが喜一郎と長尾宗次。横田のキリスト教史に大きな足跡を残すことになった。
明治44年(1911年)11月3日、妹クニエと『私立相愛幼稚園』を開園。(昭和14年6月閉園)教育事業に乗り出す。
大正3年(1914年)10月、書記長官山室軍平・金森通倫その他の幕僚に迎えられ'救世軍'に入隊。
大正4年2月、書記長官山室軍平を迎え『救世軍横田屯田小隊』を設立。
大正5年1月18日、藤原璋夫が喜一郎の支援を受け『永生病院』を開設。
大正7年4月5日、『相愛裁縫女学校』設立。(昭和12年廃校)
大正12年(1923年)4月3日、『救世軍横田小隊会館』の盛大な献堂式(現在の名前'横田相愛教会')

喜一郎50歳にして横田に理想郷を、『教会・学校・病院』の思いを実現させた。
ちょっとあまりにも長くなるので、とりあえず教会が建ったところまでの簡単な紹介ですが、今から約100余年前にこのように当時理解を得られなかったキリスト教を布教し、宗教活動のみではなく、地域社会へ貢献していたことに、私は強い衝撃を受けました。
もちろん元々資産家の家に生まれたという事もありますが、私財を投げ打って地域の為にと行われた様々な行動は、そう簡単にできることではありません。
岡崎の奥様から聞いたお話、そして本を読み進めて行くうちに、岡崎喜一郎氏の事は横田に住む私達は知っておくべき事だと思うようになりました。
まだまだ、研究途中です。これからも調べ続け、後世へと伝えて行きたいと思います。
まず、調べるきっかけを作って下さった、丸山聖一様・小笠原みどり様・小野一雄様、コメント頂きありがとうございました。
そして、この度喜一郎氏を調べるにあたってご協力頂きました岡崎様、本当にありがとうございました。

